Last Update 2023.12.27

~BUDDHA BRAND 最新インタビュー:後編~

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取材/文:本根誠

 

四人揃い踏みで帰国。日本で活動していくことを決めたブッダの中でデブラージは自分のことを連絡役とか伝達役と言っていた。リーダーとNo1 DJはマスターキー、CQとNippsと俺がラップで、俺はトラック作りと裏方仕事もやりますと。そのうち、みんなの気持ちがあっち行ったりこっち行ったりして制作の打ち合わせがはかどらなくなってきても、デブラージは汗をかきかき、当時俺の働いていたCutting Edge事務所に来ては、話すことはNIPPSのことばかり。クラブ界隈で聞いた武勇伝やら噂話やら、NIPPSの話をするときのデブラージは、面倒くさい人なんですよ、とか言いつつ、すごく楽しそうだった。後半、ブッダは足並みがどんどん揃わなくなっていって、アルバム『金字塔』は難産だったけど、デブラージは、兄貴分三人を実はすごく慕っていたと思う。

 


 

はじめは、42nd & Times SquareのところにあったMusic Factoryというレコード屋を教えてあげて、ここで二枚使いのネタレコード買うといいよ、とか教えてあげてたんです。あとはMars でDJをはじめたり、何となくみんなで活動しはじめた頃、デブラージが日本に一時帰国して、(新宿にあったクラブ)第三倉庫の話聞いたり、ECDさんに会ったりしてきたみたい。

それで、俺らもグループ結成しようかって。

「俺はこれやるよ」「俺はあれやる」思いつきと口からはじまっただけで。うわさのチャンネルも、その頃思いついたグループ名のひとつで、一週間ぐらいの話。

ある日、家のそとを見てたら、白人のおばあちゃんがプードルかなんか散歩させてて叱ってんの。「NUMB BRAIN なんとかかんとか!!」って。アホ、オタンコナス!みたいな感じ。バカっぽくていいな~と思ってね。同時期にデブラージがブルックリンのSoul Powersって団体のリーダーの人から、お前のMCネーム、Fury The Fat Buddhaどうよって言われて気に入ってて、じゃあグループ名をNUMB BRAIN BUDDHA BRAND にしようかってなったけど、これじゃCorny過ぎるぜって言われたって。それでBUDDHA BRANDになったと記憶してます。

それで、役割分担も決まったしって、とりあえず俺が四小節リリック書いてみたの。たった四小節。そしたら、デブラージがすごくびっくりしてくれて、あいつは最初はトラックメイカーとか、裏方でいくって言ってたけど、その四小節聴いて、俺もラップやるってなって。だからデブラージと俺のスタイルはちょっと似てる。自然な一体感というかね。それだけ一緒に時間過ごしたし。英語まじりの日本語ラップは、その頃から変わってない。俺は、自分の中途半端な英語と、中途半端な日本語しかないから、自分らしく、自分のコトバだけで無理しないで書いています。そのあと、それがブッダのヒットに化けただけです。

曲の中にたくさんのパンチラインやキーフレーズが散りばめられていることをほめてもらった時期もあるけど、ぼくらの聞いてきたラップではそれが当たり前でもあったから。より面白く言って盛り上がり合うとか、おどろかしたり、ショッキングだったり笑えたり、そういう要素がないと正しいことを言っててもつまんないでしょ。ストーリーテリングものもやろうよ、とか言ってたこともあるけど、あの頃から今に続く世界が結果的には俺の持ち味かな。。ぼくたちはちょうど、80年代のパーティ・ラップ全盛期から、ラップの世界が広がりつつ安定した時代の育ちだけど、その中でもサイプレス・ヒルが「Latin Lingo」って曲で半分英語、半分スパニッシュでラップしてて、ああ、俺たちも今のままで良いんだなと思わせてくれるエグザンプルは出始めていたんです。俺たちはオーセンティックなものが好きだと思います。ぼくは、黒人音楽全般のことはわからないけれど、ラップの基本はまちがいなくBrag & Boast(大げさに:自慢する)。これのセンス。俺がイチバン、俺は車もってる金持ってるとか、それを自分ら流に研究し尽くしたのがブッダ。

 

↑のちにSilent Poetsや中原昌也さんなどラップ界以外とのコラボも増えるNIPPS のスピリチュアルさが開花した曲。これって天動説? ウィリアム・ジェームズの再来?のような思考が聴く者をゆるっと飛ばす

 

デブラージは日本語ラップの最新情報とかをまめに持ってきてくれて、みんなでチェック聞きしたけど、カッコ良くないな~とか思ってた。まずフロウがなってないと思いました。極めるとア・カペラでも説得力あるくらいのラップじゃないとダメだと思っていたから。だから、韻踏むタイミングや、ブレスのポイントに至るまで、ブッダは最初からこだわりまくっていた。最初にできた曲は「Funky Methodist」、あの頃はずっと四人して話しあってた。俺たちのスタイルってなんだろう、とか。やっていくうちに固まってくるのだろうか、とか。メンバーがこんなに面白いメンツが揃ったから、絶対にカッコいい方向に固まってくるとは思っていた。デブラージはコテコテで、マスターとCQは日本寄りで、この四人なら面白いことができるだろうなって、いつも思っていた。それで、リリシストラウンジとか出たり表立った活動も始めるけど、俺は実は趣味の延長、ぐらいの気持ちだった。自分のラップを二枚使いで聴いてみたいな、くらいの目標。だけど、仕事と思ってない分、ラップ、音楽それ自体には妥協できないから、毎日練習してた。個人練もグループ練習もひたすらもう。最初のレコーディングの時はダビングなしの一発録りでした。日本で活動がはじまってデブラージがCutting Edgeに通うようになって、俺に、もっとプロ意識もたなきゃダメですよって言うようになった頃でもまだ、プロモアマもあるかー! ぐらいに思っていて。どれくらいカッコいいラップできるか、しかアタマになかった。

反面、活動については俺は夢がちっちゃくてね。デブラージが日本の状況を教えてくれて、こいつら大したことないよ~とか言ってて、実の俺の当時の夢はECDさんの❝Check Your Mike❞に出たかっただけなの(笑)。そうこうするうちに日本のCutting Edgeでレコーディングしないかって段階に及んでもまだ2週間の一時帰国で済むだろう、ぐらいにしか思ってなかったんです。

 

■「人間発電所」BUDDHA BRAND

↑NIPPS のWeedアンセムをサビに捉えてクラブアンセムに昇華したプロデューサー、デブラージ会心の作。

 

(「人間発電所」について、あの曲は日本で初めての爽やかなWeed ソングだね、という本根の指摘を受けて)明るいトラックで殺しのリリックだったり、その逆にハードなトラックでステューピッドな笑える感じだったり、シングル盤でも、A面が爽やかで聴きやすければB面はどろどろリリックがいいよね、とか、極端に相対する感じがいいよね、とかは良くヒデ(デブラージのあだ名)には言ってたね。そういう作品の方向性については、ムードメイカーを超えて、あの頃は洗脳じみてたかもしれない(笑)。けれど四人の気持ちの中にあることを俺が言葉にしてたのであって強要ではないけれど。日本で活動を始めてライブが多くなった頃も、盛り上げたいばかりにリリックの途中でコール&レスポンスはさむのは良くない! ちゃんと1ヴァ―ス歌いきろう! とかイベントの楽屋とかでもずっと四人で打ち合わせしてた。エンターテイナーという意識は低かったかも。自分らがどれだけ出しきれるかだけで精一杯でもありました。お金というより出たいから出るんだ、歌いたいから歌うんだ、という欲求だけだった。今でもそれしかないから、お金が貯まらないけど(笑)。たくさんの時間をかけたからって良いものができるという訳でもないから、、と言われることもあるけど、俺はいつも、そう簡単に良いものができてたまるかって言います。自分の行きたいところに到達するためには時間を惜しみたくないし、自問自答も楽しいし。

 


 

それではアメリカを代表するギネスクラスのザ・バンドの場合。ボブ・ディランと出会ってデビューのチャンスをつかむまでの彼らはかれこれ5年以上、ロニー・ホーキンスというロックンロール歌手のバックバンドとして全国をドサ周りしていた。グロサリーで万引きして夕飯を得たり、そうとは知らずにジャック・ルビーのクラブで演奏させられてたりとかやんちゃ話などは解散記念ドキュメンタリー映画『ラスト・ワルツ』に出てくる。と、伝記本『流れ者のブルース』には、はじめはドサ周りとはいえロックンロールのプロになった浮き足で悪さしていたけれど、そのうち、のちのメイン・コンポーザーとなるロビー・ロバートソンがアメリカの歴史に惹きこまれ、メンバーは毎晩、投宿先のホテルなどにこもり、アメリカについての研究活動をはじめたという。そしてその成果は、当時流行りのサイケロックともブルーズ弾き倒しロックとも大きくちがう、カントリーブルーズ、カントリー、ケイジャン、R&B、、、アメリカの希望も哀しみをもミクスチャーしまくった、あの絵巻物のような作品となって結実した。

 

↑ ザ・バンド

本物志向なら笑っちゃダメ!

↓ ブッダブランド

 

一人の南部育ちの青年と四人のカナダ生まれの青年。うちひとりはネイティブ・アメリカンの血を受け継いだロビー。

そしてブッダだ。二人の日本育ちの青年と二人のアメリカ育ちの青年は、どこのシーンにも属さずに5年の時をひたすら自分らの世界観の研究に没頭した。

そこにはマーケティングも戦略などもない。ひょっとするとどこかの誰かに届けたいという想いすら希薄だったのではないか。

残念ながらザ・バンドの素敵なハーモニーを支えていたリチャードとリックは早逝。ロビーは元気いっぱいでも、もうバンドはないけれど。

ビートニクスの世界での不幸は、ジャック・ケルーアックにビートな生き方考え方の影響を与えたニール・キャサディの若死というのは有名だけど。デブラージの急逝は、本当に音楽シーンにでかい喪失をもたらしたし、俺についても暮らしに対する考えさえも変えさせるぐらいのショックだった。けれど、ブッダはその独自のクリエイティビティの源となる三名が今日もとっても元気! おのおのの活動が活性化してきてるのはちょっと探せばすぐ出るし、三人でも集まる機会が増えてきているという。新しい金字塔の建設に向けてみんなで応援しよう!