Last Update 2023.12.27

Interview

台風クラブ ロングインタビュー

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――さきほど、3コードのロックンロールとはいえ簡単にはいかないと20歳の頃に気づいた、と話してくれましたが、となると、まさにこの時期だったということになりますね。

 

石塚「ですです。当時は、マイナー・コード禁止、16分禁止、みたいなことを自分たちに課していて。とにかくシンプルなロックンロールをやるんだ、って4人で決めていたんですよ。ダカダカダカダカ…みたいなフィルインはダサいしな!みたいに言ったりして。そうやって自分でタンカ切っておいて、自分の首をしめていましたね。ただ、その頃に作った曲のいくつかは、今、台風クラブでもやっています。「42号線」とか「退屈」とか。だから全くダメというわけでもなかったんですけど……ただ、その頃、ヤマさんが失踪してバンドがまた立ち行かなくなるんですよ」

 

――失踪!

 

山本「失踪…っていうか、まあ、そのバンドもうまくいかないし、もともと映画、映像の方もやりたいと思っていたので、もうバンドやめます、映像の方やりますって一応宣言して。で、翌週からもう練習に行かなくなりましたね」

石塚「こっちは夜通しドラマーを探して。で、見つからんくて。そのまま終わり…みたいな感じでしたね」

伊奈「僕、一度、そのバンドを見てるんですよ。古っぽいロックやってるな~って(笑)」

石塚「で、こっちはもうバンドもダメになったし、一応、大学にまた通うようになって、社会学面白いな~、ちゃんと卒業しようかな~って気持ちになったりして(笑)。親に「子供が二人いると思って許してください」って言って、で、結局8年かけて卒業したんですけど(笑)。その間、バンドはほとんどやってなくて、空白期間が続いていました。つきものを落とすような時期だったと思います(笑)。で、その後、今出川ラナウェイズってバンドを始めるんですけど、それが今から6年くらい前。これが台風クラブの一つ前のバンドです。台風クラブの最初のベースと、伊奈くんと、鍵盤の女の子との4人でした。その頃、京大吉田寮に遊びにいくことが多くて、伊奈くんもちょうど吉田寮の厨房使用者だったので、それで時間を共にすることが多くなってセッションしたりして改めて仲良くなったって感じでした」

伊奈「僕はプパボーンファミリーに入ってから実はずっと吉田寮あたりに出入りしていたんです。プパボーン~が吉田寮界隈のバンドだったんで。そこで石塚とまた繋がって…」

 

――ということは、台風クラブが誕生する背景には吉田寮界隈での邂逅があったということになりますね。

 

石塚「吉田寮の寮祭で、AC/DCのTシャツを着てベース弾きながら「ロール・オーヴァー・ベートーベン」歌ってる人がいたんです。それが今出川ラナウェイズ、台風クラブの前のベースのまっちゃんで。それで声かけて、なんかやろっか、ってことになったから…まあ、そうですね。で、ドラムに伊奈くん入ってもらって、鍵盤はまっちゃんが連れてきて……。ただ、それまでの経験で色々と懲りてたんで、最初からあまりコンセプトは決めなかったですね。鍵盤も、まあ、来るなら来いや、みたいな。実際、その頃まではライヴもまだ今みたいにコンスタントにやっていたわけでもなかったし、何かリリースしよう、みたいなことも考えてなくて……とにかく20代の頃は、京都のロック云々っていうことにとらわれてた、そのつきものを落とすことに注力していた時期でした(笑)。ほんと、それに苦しめられていたんで」

 

――苦しめられていた、というのは、3コードのロックンロールを極めることができなくてもがいていた感覚とある意味近かったんですか? 本当はそこに辿り着きたい、でも、辿り着けない、みたいな。

 

石塚「そうです。近づきたいけどでけへんくて、どないすんねん、何のヴィジョンもないな、みたいな。で、そういう気持ちを少しずつ落としていっていた頃に、台風クラブって名前でまたやろうか、ということになったんです。それが2013年夏でした。もう3コードにこだわるとか“日本のストーンズ”になるとか(笑)、そういうことは考えない、と。実際に曲の作り方も変わりましたからね。マイナー・コードも入っているし、自分でもわけわからんコード使ったりしているし。もう、おもむくままにやろうって感じでした。それを最初メンバーにも話しましたね。「今回はメッチャややこしいコードもあんねんけど」って。20代の頃は本屋とレコード屋しか行ってない、みたいな生活だったんですけど、そうやって蓄積していたものが自然と出るようになったんだと思います」

 

――ちなみに、就職はしたんですか?

 

石塚「いや、してないです。就活も全然。でも、それも音楽でやってくぞ、とかそういう気持ちがあったからってわけでもなくて。ただ、「背広着たくない」とか「朝から通勤したくない」とか、その程度の理由です(笑)」

伊奈「僕も卒業後はニートだったり日雇いだったり…今の仕事につくまでは全然就活とかしませんでしたね」

山本「僕は、そういうわけで映像の仕事をしたくて、バンドを離れて、一時期、河瀬直美監督のところで助監督の仕事をしていたことがあります。極力音楽から離れて、映画の仕事ばっかりしていたんですけど、でも、またいろんなバンドとかと知り合ったりしてPVを撮るようになったりもして。「やっぱりバンドええなあ」って思ったりもしていたんですけど、もうすることもないかな…って思ってて。一回バンドから離れたんで、もうやったらアカンやろ、合わせる顔もないなあ、みたいなね(笑)」

 

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山本(ベース)

 

――でも、結局山本さんは2代目ベーシストとして加入するわけですね。再合流するきっかけというのは?

 

石塚「まず、2013年に台風クラブでスタートして、その3年の12月14日に最初の自主制作盤『12月14日』を録音して、その二週間後、吉田寮食堂が大規模補修工事前の最後ってことで企画したライヴ・イベントで売ったんです。なんか名刺代りになるような1枚を作りたくて、2時間で7曲録音しました。つまり、あれは最初の3人での音源なんです」<<続く>>

 

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