Last Update 2017.11.22

Interview

ラテンアメリカ歌街道~よしろう広石独占インタビュー~

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24歳でベネズエラから世界デビュー、中南米で驚異的な人気を博し、 冷戦下のソビエトなどでも活躍したりと、世界を渡り歩いた日本のラテン音楽の先駆者、よしろう広石。その華々しいキャリアとは裏腹に、海外での歌手生活は想像以上に厳しいものだった。今回、7インチ「ELLY MI AMOR」発売に際し、独占インタビューを敢行。戦後の日本のジャズ~ラテン文化から、デビューを飾ったベネズエラでの日々、コロンビアでのメデジン・カルテルとの抗争、果てはラテン~ブードゥーの世界まで、よしろう広石のラテン・ワールドを紐解く。

 

取材/文:松下源
撮影:白井晴幸

 

ーー何年にベネズエラに渡られたんですか?

よしろう 東京オリンピックの翌年の1965年の4月25日に日本を発ちました。

 

ーー歌を志したきっかけは?

よしろう 小学校の時から人と違いすぎていて、生きづらかったんですよ。生まれは九州の大分県なんだけれども、人が恋しいくせに人との付き合いが嫌で。それで歌の世界に入れば自由にやっていけるんじゃないかと思って。

 

ーー歌は小さい時から歌われてたんですか?

よしろう 小さい頃から好きでした。中学の頃から大阪のジャズ喫茶に出入りして、歌わせてもらったりして。

 

ーーその時はラテンではなくてジャズだったんですか?

よしろう ラテンなんか知らなかったですよ。その頃は子供が入っても咎められるような時代じゃなかったから、中学1年の時たまたま神戸の港についた時にジャズ喫茶に歌わせてくれって頼みに行って。だんだんそこの箱に気に入られるようになって、こっそり週末に船で通ってました。

 

ーー中学生ですでに夜の世界で歌ってたんですね。

よしろう 親が別に咎める人じゃなかったから。半分諦めに近い感じですかね。
で、オーディションに受かって高校の頃東京に出てきて、昭和32年頃かな、横須賀の米軍キャンプのクラブでプラッターズの曲しか演奏しないプラッターズナイトっていうイベントに出たりしていました。

 

ーーその当時ってどういう風に曲を覚えたりしていたんですか?

よしろう 主にレコード、ラジオですね。ジャズの先生に師事してもいたので、楽譜で覚えたり。
昭和20年に戦争が終わって、翌月くらいからジャズが街に溢れ始めて、鬼畜米英って言ってたのがガラッと変わった。李香蘭とか大正の頃に流行った大正モダン的なおしゃれなジャズが戻ってきたりして。なんでこんなに変わったんだろう、って不思議でした。最初に出てきたのが笠置シヅ子。当時演歌という言葉はなくて流行歌と呼ばれていました。歌謡曲という言葉はもう少し後になってから。歌手はみんな流行歌手。そしてジャズ、シャンソン、タンゴ、ラテン歌手が今よりずっと多かった。

 

ーージャズからラテンに切り替わったきっかけは?

よしろう ダンスホールというのが当時の日本人の男女の出会いの場でした。ジャズやラテンの生バンドで踊る、そういう場所がいっぱいあった。で、ラテンを覚えてくれないかって言われて。その当時ラテンを歌う10代の歌手っていなかったんですよ。んで、ものすごく可愛がられてモテてモテて。今でいうジャニーズ系、みたいなものですかね。10代だったから1週間くらいで覚えられたんですよ。

 

ーー吸収が早いですね。当時何が一番流行っていましたか?

よしろう 日本で当時流行っていたのはぺレス・プラードやロス・パンチョス。ペレス・プラードは今はなき浅草の国際劇場で超満員の来日公演を見に行ったことがあります。
ラテン関係であれだけ戦後ブレイクしたことはないんじゃないかな。日本中がマンボ・ズボンを履いていました。一大風俗になってましたね。

 

ーー戦後、海外の音楽はどういう順番で戻ってきたんですか?

よしろう 進駐軍が極東放送で流していたので、ラテンよりジャズが圧倒的に早かったです。20年代の洋楽はタンゴ、シャンソン、ラテン、ジャズだったんですが、その中でもジャズが一番人気があった。美空ひばりのジャズも多く流れていました。

 

ーーその後、ラテンが流行り始めた、というふうに実感したのっていつ頃ですか?

よしろう 昭和35年~40年くらいですかね。その頃たくさん出たムード歌謡グループが、ラテンを歌謡っぽく日本語で歌っている感じだったんですが、あれがどうも肌に合わなくて。反対に自分はキューバ、カリブ寄り、ブラジルのオシャレなバラードや活きのいいものを歌っていたので、あまり世間に受け入れられなかったですね。

 

ーーその当時よしろうさんはラテンを何語で歌われてたんですか?

よしろう スペイン語。その方が米軍キャンプで歌ってもヒスパニックの人たちとかと心が通じるんですよ。原語で歌うということが主流でしたし、紅白歌合戦も一番は日本語、二番が原語というのが普通でした。
で、しばらくすると流行歌から歌謡曲になって、橋幸夫とか舟木一夫が出るようになり、外国の歌があまり必要とされなくなった。みんなが歌える歌が増えた。

 

ーーそこで日本を出ようと。

よしろう そう。日本で歌っても永久にうだつが上がらない、と思って。

 

 

ーー海外に出る直接のきっかけは何だったんですか?

よしろう 東京オリンピックの頃、ベネズエラって今では破綻国みたいになってますけど、石油の埋蔵量は世界一でものすごく景気が良かったんですね。フランク・シナトラやポール・アンカなど世界のスターをベネズエラのテレビ番組に毎週呼ぶくらい羽振りが良くて。そんな折、コーヒールンバをヒットさせたエディス・サルセードが日本に来て、その前座をやったことがあるんです。その時にイタリア語、日本語、スペイン語、英語、いろんな国の言葉で歌った当時のヒット曲12曲入りのプロモーションレコードを作って渡したら、すぐ反応があって、ベネズエラに来ませんかって。

 

ーーいきなりチャンスが来たんですね。

よしろう 日本でベネズエラから南米諸国に輸出できるような歌手を見つけて来てくれ、という動きがレコード会社であったみたいなんですよ。で、いきなり来年の5月デビューですって契約書が送られて来て。向こうの新聞には東洋の大スターが来ます、ってほとんど嘘のプロモーションやっていて。毎日何かしらの自分の曲が向こうのラジオでかかって、TVではあと何日、みたいな相当大きい宣伝をやってもらったみたいです。

 

ーーなんで日本に目をつけたんですか?

よしろう たまたま東京オリンピックにエディス・サルセードが来たというタイミングで、注目されていました。ラテンアメリカに来た日本人というのがいなくて、珍しさ、向こうの人受けする歌ばかり歌ってたというとこが買われたんですかね。

 

ーー当時のベネズエラから見た日本、ってどんなイメージだったんですか?

よしろう 色々な場所を回ってライブしたんですが、ステージのダンサーもベトナムの相撲取りみたいな髪型で、扇子に僕も読めない謎の漢字が書いてあって、「これは日本じゃない」って文句つけたりしたんですけどね。

 

ーー東洋の怪しい未知の世界、ですよね。

よしろう 僕もそういうのは意識して下駄でタップしたり、歌舞伎の早着替えとかしてたら大使館から呼び出しが来て、「あんまり日本の間違ったイメージを伝えるな」って注意を受けたこともあります。

 

ーー当時の契約ってどんな感じだったんですか?

よしろう 興行ビザで行ってたので何日以上いられないって決まりがありました。あと、ブレイクしたら飽きられてしまうので、その国に居続けちゃいけないというのもあります。ブレイクしたらサッとその国を去る、というのが鉄則。

 

ーー音楽ビジネスの定石なんですね。

よしろう 中南米の国々を絶えず回っているという感じでした。

 

ーーベネズエラの次はどこに?

よしろう ベネズエラの次はコロンビア公演に呼ばれてたんですが、ちょうど入国のタイミングで政情不安で入国禁止になり、メキシコに行きました。そこでオーディションを受けて、ステージに立って、仕事をしてましたね。

 

ーーメキシコにはどれくらいいたんですか?

よしろう だいたい3ヶ月が最長なんですよ。ラテンアメリカってアーティストユニオンが非常に発達していて、当時ラテン系音楽のメッカはメキシコでした。メキシコにハブのTV曲があり、北はアラスカから南はアルゼンチンまで網羅していたので、皆ラテンアーティストはメキシコに行っていました。

 

ーーその後、ラテンアメリカ各国を回られていたわけですが、ラテンアメリカ各地のTVで放送されると各地の巡業で反響ありましたか?

よしろう 一番ひっくり返ったのは、ベネズエラで当時のサラリーマンの年収10年分を1ヶ月でもらえたことですね。一ドル360円の時代だったから。

 

 

ーーええ!すごい。それ何に使ってたんですか?

よしろう ラテンアメリカって時として政情不安になる国もあり、ツアーがなくなることがよくあったんですね。その間、マイアミやアメリカに滞在するわけですけど、その間の滞在費とホテル代は自分持ちなわけです。スターだという矜持があるから飛行機も全てファーストクラスでした。それでほぼ消えてしまうんです。

 

ーーまだ日本人の歌手がいない時期にラテンアメリカでツアーを繰り返すってすごい体力ですね

よしろう 南米にはこの世の快楽の、全てがありましたからね。

 

ーー何が一番刺激が強かったですか?

よしろう セックスですね。あと向こうのパーティーはとにかくすごい。スクリーンでしかみたことないようなスターが来てスワッピングやったり。歌とそういう快楽同時進行だったから、戻りたくないですよね。

 

ーー日本に刺激がなさすぎると。そういう桃源郷みたいなところにいて、いつ頃日本に戻って来られたんですか?

よしろう 1965年の4月に行って、1966年の9月に一度戻って来てますね。一旦期間を置かないと飽きられちゃうから。
で、次は68年に発ちました。
知られてないところで一から出直す、みたいな意気込みでした。哀れな仕事もやりましたよ。
コロンビアで反政府ゲリラとドンパチやってる中をかいくぐりながら、バンドやダンサーの欠員の穴埋めみたいなこともしていました。まだ娯楽が発達していなかったから、当日まで公演内容が決まってなくても客は来るんですよ。

 

ーー結構泥仕事もされてたんですね。その時はどこメインで行かれたんですか?

よしろう アルゼンチンでかなりウケたので、しばらくはアルゼンチンに居て、アストル・ピアソラとも共演してました。
向こうでアルゼンチンタンゴ歌ったり、サルサやったり。で、71年に病気になってまた帰国しました。

 

ーー何の病ですか?

よしろう ストレス性のものだったんですが、歩けなくなってしまって。どこも悪くないといわれ、原因は不明でした。その頃そういう言葉自体あまり一般的ではなかったんですが、今思い返せば鬱だったのかなと思います。
その後しばらく小澤音楽事務所に所属していたんですが、うだつが上がらなくて、1974年に次は永住する覚悟でメキシコに行きました。

 

ーー日本にいた期間はレコードリリースされてないんですか?

よしろう ソロではなくて、ラテンや映画音楽のオムニバス作品ですね。

 

ーーラテンアメリカ滞在中のリリースは?

よしろう いくつか出してるんですが、自分でももう持っていないくらいですね。僕、本当の意味でのヒット作ってないんですよ。いつだったか、自分の声はあまりレコードに向いていないんだと言われたことがあります。なので、南米での人気はTVショウの影響ですね。とことん自分はステージ向きなんだと思います。

 

ーー去年、吉祥寺サムタイムでよしろうさんのライブを初めて拝見したんですが、20代の若い女性がシックなジャズバーで踊り狂っているのを見て衝撃を受けました。

 

 

ーー今回の7inchのA面曲、ELLY MI AMORも収録されているアルバム、CARIBE A.M.がリリースされた時のことを聞かせてください。

よしろう まず、1989年にシングルでB面にも収録されているBanboleoとDjobi Djobaをリリースしました。それがニューヨークで流行り出して。

 

ーー海外でも流通していたんですか?

よしろう いや、カバーさせてもらったジプシーキングスに会ってたくさんレコードを渡したんで、その時のものが音楽関係者に広まったんじゃないかな。
同じ年にorquesta de la luzもニューヨークに行って大ブレイクし、サルサブームの先駆けになっていました。で、ニューヨークでついた火が南米にも広がって行って、ブームのさらに先駆けはYOSHIROだということになり、その時はサルサじゃなくて急遽メレンゲ歌手ということでベネズエラにまた呼ばれて録音しました。

 

ーーえ、サルサ歌手じゃなくて?

よしろう ええ、向こうはいい加減なんですよ。ベネズエラに初めて来た日本人歌手を改めて呼び直そうというプロモーションの一環でした。その時はもう52歳ですね。プロデュースはウーゴ・ブランコでした。

 

ーージャケも最高ですよね。ベネズエラ盤と日本盤でジャケが少し違うのもいい。サルサっていうよりもアルバム全体はソカっぽいですよね。

よしろう 当時ランバダのブームもあったので、それに乗っかった形でもありました。で、これを出す時、コロンビアで大きなプロモーションをやるから来てほしい、と言われてたんですが、コロンビアに行けない事情というのがありまして、、、

 

ーーどういう事情で行けなくなったんですか?

よしろう 初めて南米に渡った時のツアーで契約上のトラブルで拉致されたことがあって。当時週給500ドルで契約していたんですが(1ドル=360円)、契約を向こうが守らなかったので、別のプロモーターと仕事をしだしたんですよ。でコロンビアをバスでツアー回ってたら、ホテルに警察が来て、「コロンビア警察から強制出頭書が出てます」といきなり言われて。どうやら最初の契約違反だったプロモーターのバックがメデジン・カルテルだったようで、、、

 

ーー警察とマフィアがグルになっていたんですね。

よしろう そう。そんなにギャラも多くなかったんだけど、公演自体はお客さんに死者が出るくらいの大盛況。で、コロンビアに呼んだのは俺たちだとメデジンが主張しているという事情だったんです。

 

ーー知る人ぞ知る凶悪マフィアに命を狙われる。

よしろう さすがに身の危険を感じました。
警察とグルになって4500ドル出せば自由の身にしてやるという風に強請られたのですが、その時、ツアーの途中でほとんど金も持っていなかったので、自分は日本では大スターなので日本大使館ならすぐに金を出してくれると嘘をつき、大使館へ逃げ込み、顧問弁護士を紹介してもらって保護してもらいました。その顧問弁護士が後にコロンビアの大統領の秘書も務めたとても有能な人で助かったんですが、コロンビアは一度捕まったら何年も出してもらえない、法律も通用しないので、とにかくここから出なさいと言われ、パスポートもマフィアに握られていたんですが、他のマフィアを買収して取り返してもらいまして。空港も出国できないようになっていたんですが、なんとか乗れて。乗る直前にマフィアに「ざまあみろ」と電話してメキシコに逃げました。

 

ーーなんというか、悪運強いですね。その後マフィアは追いかけてこなかったですか?

よしろう それが、日本まで追いかけて来たんですよ。
メキシコではティファナという朝からダンサーたちがバーで踊っているような赤線地区の歓楽街のステージで歌っていたんですが、ある日ウイスキーに睡眠薬を入れて変になり、ステージを飛ばしてしまってクビになり、日本に帰らざるを得なくなってしまって。68年ですね。

 

ーーだいぶアウトローな話になって来ましたね。

よしろう コロンビアを出る直前に向こうを訴えたんですが、日本に帰ったあと、裁判の結果を知らせる手紙が来ました。法律用語で何が書いてあるかわからなかったので、ベネズエラ大使館の友人に翻訳を頼んだんです。僕は負けたと思ってたんだけど、大使館の友人に「よしろうさん、あなたこれ勝ったのよ!3600万円も!」って言われて驚きました。間も無くコロンビア大使館から電話がかかって来て、「住所を教えてください」と言われ、お金を振り込むときに必要な情報なのかと思ったんで嬉々として教えたらどうやら違ったようで、しばらくしてマフィアの子分から「コロンビアにいい契約があるので10日以内にそちらに行きます」という内容の電報が届いたんです。それでホテルニュージャパンでその子分と会うことになって。

 

ーーよく会いに行きましたね。

よしろう それで最初は契約の話をしてたんだけど、なんか臭いなあと思って「お前裁判の結果知ってるんだろ」て詰問したら、目が泳いだんですね。それでとうとう来た理由を白状して、「兄貴がコロンビアで大変なことになってるから助けてほしい」って言われたんです。どうやらそのマフィアはコロンビアで航空会社や歯医者やいろいろな商売をやっていたんだけど、裁判に負けて銀行口座も全部封鎖されて困っていると。で、「兄貴は来てるのか?」って聞いたら「外で待ってる」と。

 

ーーでもよしろうさんに頼んでも裁判所通してるからどうしようもないですよね。

よしろう そうなんですよ。で、ミカドって赤坂のクラブで散々接待受けたんですが、どうしようもできないなあと思いつつ、その後何度か家まで二人が押しかけて来て。
怖くなって大阪に身を潜めていたら諦めて帰ったようです。

 

ーーそれで結局3600万円は無事振り込まれたんですか?

よしろう 結局300万円くらいしか振り込まれてなくて。弁護士が全部ピンハネしてたみたい、、、

 

ーー弁護士が一番のワルでしたね、、、今は日本を拠点にされてますが、日本に戻って来たのはいつですか?

よしろう 90年代前半、ちょうどCaribe A.M.を出した頃、南米と日本を行ったり来たりしているうちに、芝浦にLocoLocoというサルサの店ができて、エディ・サルセードがそこでライブをするというので遊びに行ったんですよ。で、そこで前座をしていたバンドが僕の「いとしのエリー」カバーを演奏していたらしいんですね。で、気になってそのメンバーに会った時に、一緒にやりませんかと言われたんです。その後ライブを見たときはあまりうまくなかったんで不安だったんですが、一緒にリハーサルに入って音源通りのアレンジで「いとしのエリー」をやったら音がガラッと変わったんです。初めてライブを見た時は日本の歌謡曲をサルサバージョンでやっていて、お仕事で本人たちもやっている感じだったんです。でも本人たちは、こういうメレンゲ風アレンジとかがやりたかったみたいで、その後一緒にライブをしたらお客さんの反応も全然違って。バンドメンバーもみんな20代で若くて、このバンドだったら、しばらく日本でやっていける、と思いました。

 

ーー自分のやりたかったバンドと日本でようやく巡り会えたんですね。YOUTUBEの動画で、LAの満員のサルサクラブでよしろうさんがライブしてるレポート映像が残っていたんですがそれはその頃?

よしろう そうです、1990年~2000年にかけてかな。オーナーが香港系の今もある、mayan theaterというクラブですね。オーナーが気に入ってくれて毎年よしろう&東京サルサボールというバンドで呼ばれて、全米ツアーもやりました。

 

ーーどういうきっかけだったんですか?

よしろう 前述したように、今回7インチでリリースされるDJOBI DJOBAが90年代にNYのクラブでかかりだして、話題になっていて、そこのサルサクラブのオーナーが東京まで来てオファーしてくれたんですよ。

 

ーーB面のDJOBI DJOBAってリリースされた時、全く世に出回っておらず、オリジナルは幻の盤とされているんですが、その経緯について聞かせてもらえますか?

よしろう 1989年にいち早くこの曲を日本語でリリースしたいと思い立って録音もして、その年の5月にリリースされる予定だったんですが、その年に昭和天皇が体調を崩されて、9月くらいから歌舞音曲は控えるという風になって随分プロダクションが潰れたんですよ。某プロダクションのプロデューサーが困っていたところである大手レコード会社の関係者がその音源(当時リリースされるはずだったA面のBamboleo)を渡してしまって、ちょこっとだけギターをかぶせて歌を乗せて、先にリリースされてしまったんですね、、、
リリースもしていないのに、有線でやたら流れてるからおかしいなあと思って、高田馬場のムトウってレコード屋に行って買って聞いてみたら、あれっ、となって確信しました。でも向こうの方が先に出して勝負かけてるからよくできてるわけ。

 

ーーこれ、俺のオケじゃん、ってなりますよね。

よしろう 7小節、6小節、9小節って特殊な変拍子で作り込んでるわけだからわかるんですよ。偶然ではありえないし。自分の歌詞も少し残してあって。
それでプロデューサーのところに電話したら「話が読めないんですけど」って言われて。とぼけてるわけですよ。で、事務所まで行って「朝日新聞にリークしてある」って言ったら、焦って「ちょっとストップしてください」ってなって。で、翌日朝早くにうちに来て、プロデューサーが泣きながら土下座して「謝りたい」と言って来て。結局私も訴えようと思って、その大手レコード会社に訴えますと話したら、1千万円振り込まれてました(笑)で、売らなくていいや、となりました。

 

 

ーー無茶苦茶ですね(笑)今も東京サルサボールでの活動は続けられているんですか?

よしろう 今はそんなに頻繁ではないですが、去年の10月にも僕の60周年記念ライブでライブしましたよ。

 

ーー60周年ってすごいですね。次のアルバムはいつ出る予定ですか?

よしろう 来年の7月を予定してます。来年の6月にはキューバ公演を予定しています。

 

ーー楽しみですね。ハリケーン大丈夫なんですか?

よしろう 電線はぶら下がってるし、連絡も取れなくなるし。でもこないだテレビで見たら腰まで水の中に浸かりながらもみんなサルサ踊ってましたね(笑)

 

ーーすごい。どこでも踊りますね。

よしろう うん、でも彼らはアメリカに制裁を受けたり、そういう歴史の中でどういう風にくぐり抜けていくか、そういうこともわかってて思ってるよりうわてなんですよ。哲学的というかね。

 

ーーどれくらい行かれるんですか?

よしろう 10日間くらいですね。2年に一度のボレロフェスティバルというのがあって、それがメインです。とにかくお客さんがアツい。
日本で10年やるより2日間のボレロフェスティバル出た方が世界的な認知度も上がる。90年代から毎回出ていますが、このために生きているという感じです。ステージに黒人のダンサーが上がって来て勝手に踊り始めたりといったハプニングもあったり。

 

 

ーーどういうダンスを踊るんですか?

よしろう アフリカから来た宗教的なルンバというものです。だんだん興奮してくるんだよね。

 

ーーシャーマニックですね。

よしろう そう、全てアフリカから来たものですからね。サンテリアとかもそう。ブードゥーとか黒魔術とかにラテンのルーツがあるんですよ。

 

ーーラテン歌謡と一番離れたところにありますよね。

よしろう こういうのが一番好きなんです。

 

■作品情報

YOSHIRO広石「ELLY MI AMOR」(7inch single)
レーベル:TOYOKASEI
品番:TYO7S1003
価格:1,800円(税抜)
発売日:2017年11月3日(祝・金)
トラックリスト:
Side A
1. ELLY MI AMOR

Side B
1. Djobi Djoba

 

・7inch digest
https://soundcloud.com/user-38603737/yoshiro

 

よしろう広石