Last Update 2023.12.27

Interview

台風クラブ ロングインタビュー

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日本語ロックの西日。台風クラブはプロフィールでそのように自己紹介することが多い。なるほどうまいこと言うなあと思う。眩しいほどの強烈な日差しを放ちつつも、地平線に向かって徐々に沈んで行くあの夕暮れ感。無邪気にギターをかきならし、ビートを刻み、イビツなグルーヴに乗ってけれんみのないアンサンブルを奏でているかのようなパフォーマンスだが、歌われている心象風景はどうしようもないやるせなさ、黄昏……いや、逃れようのない後悔、倦怠感、あるいは終末観を孕んだものだ。それは、何かに向けられた畏怖であり、諦念であり、絶望であり。でも、そんな自分がいとしくて可愛くて、ダメになればなるほど笑っちゃう自分もまたそこにいて。やがて西日は落ちて夜になり、漆黒の夜中を経て、誰もいないシーンとしているいつも通りの夜道で手遅れだということに気づく明け方。しかし、それを笑い飛ばすだけの力が今の自分にどれほど残されているのだろう。台風クラブというバンドの持つ業というのは、おそらくそうしたもつれにもつれた糸をほどこうとはせず、そのままが美しいとしてしまうようなロマンティシズムにあるのではないかと思うのだ。

筆者が主宰するHelga Pressのオムニバス・アルバム『From Here To Another Place』に提供してくれた「まつりのあと」をライヴで披露する際、ヴォーカル/ギターの石塚淳はたまに「帰り道のうたです」というように紹介する。そのたびに思うのは「彼らはどこに帰りたがっているのだろうか」ということだ。もしかすると、それをロックンロールと人は言うかもしれない。そうじゃないかもしれない。結論を探しには行かず、放置するわけでもなく、強引にカタチにすることも好まず。おそらくそうした佇まいが彼らの「帰る場所」なのだろう。

「ずる休み」と「まつりのあと」を収録した7インチ・シングルが本秀康氏主宰の雷音レコードからリリースされたばかりの台風クラブ。京都を拠点に活動する3ピース・バンドである。石塚淳(ギター、ヴォーカル/1986年生まれ)、山本啓太(ベース/1985年生まれ)、伊奈昌宏(ドラム/1982年生まれ)の3人に、結成までのいきさつを含めてかなりたっぷりと話を聞いた。ほぼ彼らの歴史を辿ったような内容になっているのでぜひ時間をかけて読んでみてほしいと思う。

 

 

取材/文:岡村詩野

取材場所:京都『ナミイタアレ』

撮影:木津翔太

 

――元々、石塚さんと山本さんが幼馴染みだそうですね。

 

石塚「そうなんです。僕が大阪の河内長野でヤマさんが堺。小学校の時に塾が一緒で、その頃からの知り合いです。一緒に音楽をやり始めたのは高校に入ってからで……当時はまだ僕らは別々のバンドをやっていて、その高校……初芝富田林高校っていうんですけど、僕らの学年がすごいロックンロール・フィーヴァーに沸いていたんですよ。ライヴやったりイベント企画したり。別に音楽サークルでの活動ってわけじゃなかったんですけど、とにかくロックンロール好きなヤツが同じ学年にかたまっていたんですね」

 

――ロックンロールというのは具体的にどのあたりだったんですか?

 

石塚「ニートビーツが当時すごい人気で、そういうところから、僕はちぇるしぃも知ったりして……周囲にはなぜかそういうのが好きな人が多かったんです。僕も最初は中学の時にオアシスが好きでギターを買ってもらって…って感じだったんですけど、高校の頃にはそういうロックンロールやガレージばかりを聴いていました。『京都MUSE』での《ガレージタバーン》(『京都MUSE』の行定氏を中心に企画されたガレージ・ロックのシリーズ・ギグ。過去にボウディーズ、ニートビーツ、プライヴェーツなど多数のバンドが出演)にも学ラン着て見に行ったりして、未だにその時のことを覚えてくれている人もいたりしますね。“お前、あの時の高校生か!”って(笑)」

山本「メチャメチャ厳しい学校だったんですよ、僕らの高校って。なのに、石塚は学ランの内側にバンドのバッジをいっぱいつけてたりして(笑)」

石塚「あれ見つかって全部没収されたけど(笑)。まあ、イベントに行くのはやっぱり大阪が多かったですね。《ハウス・ロッキン》って大阪のシリーズ・イベントでは、主催のマネースパイダー、ボウディーズ、毛皮のマリーズって組み合わせを見たりしましたね。客がまだ2、30人くらいだったかな。マリーズもまだCDRを出したくらいの時期でしたね」

山本「その頃かな、ミネソタ・ブードゥー・メンを梅田の『ハードレイン』で見たりしましたね」

石塚「で、そういうイベントを見に行った後、終演後に自分のバンドやイベントのビラを配ったりしてました。大阪の『club massive』とかによく出させてもらったりしていたので。マネースパイダー、THEクルマが出てくれて、東京からビフォアーズというバンドを呼んで、僕らも出た企画イベントの時とかは150人くらいお客さんが来てくれたりしてましたね」

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石塚(ギター、ヴォーカル)

 

――それはすごい。その頃から歌っていたのですか?

 

石塚「自分で作った曲は自分で歌っていました。でも、僕、最初はドラムだったんです。ドラム人口が少なかったんで(笑)。ただ、オリジナル曲が中心だったんですけど、「トゥッティ・フルッティ」(リトル・リチャード)を独自の日本語詞にして歌ったりもしていました」

 

――その頃から海外音楽の独自日本語詞でのカヴァーをやっていたのですね。

 

石塚「最初から日本語でしたね。HIGH-LOWSが好きだったというのもあるけど、やっぱり日本語が好きだったんです。当時、メロコア好きなバンドが対バンに多くて、ほとんどが英語で歌ってるんですよ。英語だと何歌ってるのかわからないし、カヴァーなのかそうじゃないのかもよくわからない。でも、ゴイステ(ゴーイング・ステディ)のカヴァーとかを聴くと「やっぱ日本語ってええなあ」って思うわけです(笑)」

山本「僕も石塚とは違うバンドだったんですけど、ストレイ・キャッツみたいなロカビリーっぽいバンドでドラムをやっていました。ほんと、ドラム人口少なくて学校全体で3人くらいでしたね(笑)」

石塚「全部で4バンドくらいあって、3人でその4バンドを回ってた(笑)」

 

――そもそもそういうガレージ・ロック、ロックンロールに惹かれた理由はどういうところにあったと思いますか?

 

石塚「何やろな…3コードだし、俺らでもできるんちゃう?っていうのがあったかもしれないですね。でも、まあ、そんな簡単にできないわけです(笑)。それに気づいたのが20歳くらいの時で、そこから延々とその事実に苦しめられることになるんですけども(笑)」<<続く>>

 

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