台風クラブ ロングインタビュー
――その頃はもう立命館大学の学生だったわけですよね。
石塚「そうです。高2くらいの頃から「京都、京都」って言ってたんで。きっかけはやっぱり、村八分、ちぇるしぃ(が活動してきた町)。その頃、ちょうどちぇるしぃがドーンときていて、京大吉田寮で24時間ライヴをやったりもしていて。いろんな雑誌で京都特集とかやってました。《くるりと巡る京都》とか。で、そこに『みやび壱番館』が紹介されてたりとかしてたので、休みの日にはそういう雑誌を持って京都に遊びにいったりしていたんです。だから大学は京都って決めていました」
――立命館大を選んだのは?
石塚「いや、受かったから(笑)。くるり…は当時『さよならストレンジャー』とかは聴いてはいたけど、彼らの出身大学だからっていう理由ではなかったですね。当時、今の音楽より、昔のルーツの音楽をどんどん掘って聴いていた頃だったんです。日本のロックを聴きまくる、みたいな」
山本「僕も聴いてはいたんですけど、新しいそういうバンドを聴いているって言うのが恥ずかしかったんです。昔のバンドを聴いているって方がカッコいい感じで……まあ、僕は浪人したんでその頃は石塚とはあまり会ってなかったんですけどね」
石塚「で、その頃、僕は大学のサークル『KEAKS』で伊奈くんと会ったんです。2学年上の先輩でした」
――伊奈さんは大学入学まではどういう経歴なのでしょうか?
伊奈「生まれは愛知の西尾市です。高校までは特にバンドとかをやっていたわけでもなくて。ドラムを始めたのも大学入ってから。サニーデイ・サービスのコピーとかやっていました。ただ、入学後割とすぐに、京都のプパボーンファミリーに誘われて叩くようにはなっていましたね」
石塚「ただ、サークルで知り合ってもまだすぐには伊奈くんとは一緒にやらなかったですね。サークルに『KEAKS』を選んだのは……新歓の時にラッパ履いてる人が多かったとか、そんな理由だったと思います(笑)。でも、いざ大学入って高校の頃とは違う別のバンドをちょこっと始めたりしても、どうもうまいこといかなくて……。ラッパ履いてる人はようけいても、俺みたいに日本のロックやとか京都の音楽やとかって聴きこんでる人もおらんくて。そんな時に、中島らもの追悼コンサートに山口富士夫とかシナロケとかも出るらしいってことでヤマさんとか高校の頃の仲間と見に行って、で、そこで一緒にバンドやろうってことになったんです。入学から1年くらい経ってたかな。で、結局大学のサークル関係なく、週末に大阪の堺で新しくバンドをやり始めるんですね。ガレージみたいなところに、昔カラオケ・ボックスだったと思しきコンテナみたいなのが捨ててあったんで、そこに機材を持ち込んで」
山本「ホンマにガレージ・バンド……っていうか、コンテナ・バンドやな(笑)」
石塚「僕はその頃京都に下宿していたんですけど、なんだかんだで毎週末、堺に行って練習してました」
山本「で、僕ももう大学(大阪工業大)に入学はしていたんですけど、全然学校に行かなくなっていたんで、車で石塚を迎えにいって一緒にバンドをやって。結局僕は大学は中退しましたけど(笑)」
石塚「そのバンドは、今、ガルウィングスやってるンダくんがヴォーカルで、僕がギターになって、ヤマさんがドラム、で、ベースがそのコンテナが捨てられていたガレージ……そこ、もやし工場の駐車場だったんですけど、そのもやし工場の社長の息子で、高校の時にやってたバンドでも一緒だった土師(ハゼ)くんてコ。オリジナルとストーンズやキッスとかのカヴァーもやってました。でも、これが全然パッとしなくて。たぶん一番良くない時期だと今でも思ってて。エゴの塊みたいな4人が密室に集まるヤバさ、というか。毎週練習していたのに、結局ライヴも2、3回しかやってないですね。普通のライヴ・ハウスじゃない、丹後半島の道の駅とかでやったり。もうわけわかんない(笑)」<<続く>>
伊奈(ドラム)