~BUDDHA BRAND 最新インタビュー:前編~
俺は大田区の沼部という、工場街と住宅街の混じった街に生まれ育って、社会人キャリアの大半を音楽関連で過ごしてるんですが、行動力ないくせに心の奥の方にいつもテーマがあって、それは、今、俺のやってる仕事を当時の同級生に聴かせられるかという基準値です。俺の育った頃といえばクラスでは、キャンディーズやらかぐや姫やらをみんな聴いてて。そんなのもいいけど、もっとすごい音楽はここにもあるぜって言えるかどうか、だけが俺の仕事の大事なポイントなんです。
会社来て毎日ぶらぶらしてるなら、昔話のコラムでも書けば、と東洋化成の仲間に言われたときまっさきに思いついたアクトがブッダブランドでした。シナロケのマネジメントを経てJET SET でアナログ作りをはじめたとき、最初にFacebook で声かけたのが昔、avex で担当してたブッダのMaster Key で、Dev LargeもJET SETで働き始めて一週間もたたないうちに遊びにきてくれた。うれしかった。avex 時代は、音源制作の中核だったDev Large とばかりつるんで、彼と決めたことばかりを進めていて、やがてグループは空中分解して、俺もavex 辞めて。俺はMaster KeyやCQ、NIPPSには少し申し訳ないことしたなと思い続けてたから、Facebookのメッセージが5分と置かずに返信きたのは、すごく嬉しかった。昔からMaster は面倒見のいいアニキ肌だったけど、コラムやるなら早く! と言われてMaster に連絡したら、あくる日にはCQを連れて事務所に来てくれた。
取材/文:本根誠
==二人は地元が一緒なんだよね?
Master:小学生のときから同じ地元です。同じ学年。今、51才。デミ(NIPPSのあだ名)
も同い年でヒデ(Dev Largeのあだ名)だけ五コ下。
CQ:ホコ天ブームだったけど行ってないんですよね。なめ猫、竹の子、でも俺らは最初まじめに野球やってた。俺は高校いっても野球やってたけど、やーちん(Master Keyのあだ名)はちょっとグレはじめてね。
Master:(苦笑)大田区にありがちな。はじっこの街で懸命に、、。六郷から出たことなかったもんなぁ。
CQ:高校入って一気に老けたでしょ。暴走族とかそういう感じ。パンチパーマだし、なぜかババアの編みサンみたいのはいてたり。競馬もしないのにアタマに赤ペンさしたり(笑)。
Master:やめろよ(笑)。渋谷とか行ったのも全然あとだよね。
CQ:行くとなんか事件あるんだよね、思いきりケンカみたいになったり。
Master:でもディスコは行ってたよ。新宿カンタベリーハウスとかさ。
CQ:蒲田にもあったじゃん(Master、本根:あったね~)、丸井のとこのサントリー館とか三軒くらいあったけど、先輩とかいて楽しめないんだよね。
Master:不良が行くところでしたね~。
CQ:これ話さかのぼりすぎなんじゃない?
==いいの、いいの。ブッダはこの辺が大事なの。
CQ:やーちんと再び仲良くなったのは高校出たぐらいからだね。なんだっけ内田克也?
Master:小林。
CQ:小林克也『ベストヒットUSA』とか観て何となく黒いのが好きなんだと思いはじめて。
Master:でもコレクターでもなんでもないレベル。六郷⇒雑色⇒蒲田、歩いて、えとせとらレコード行ったり。
CQ:カセットでテレビの音録ったり。シャネルズ聴いて、コースターズいいなあってなってサックス買ったこともあるよ。
==キング・カーティスじゃん。
CQ:ギター買って土手で無理やりやってみるけどできなくて。バンドにすら至らない。やーちんはボーカルだったよね。
Master:もういいよ。。時代なんだよ。友達の先輩が『GINZA NOW』出てて。
CQ:カッコやくざでバンドやるっていう(笑)。
●山下達郎/On The Street Corner
この時代にドゥワップといえば大滝詠一、シャネルズとこのアルバムが教科書だった
==ヒップホップに出会うのは?
Master:要するにディスコでかかってたんだよね。
CQ:友達の兄貴がディスコファンで、カセット渡してダビングしてもらったらミックスされてたりね。
==なんでニューヨーク行ったの?
CQ:ラップしたいとかはまるでなくて、まず行ってみようかって話になって。
Master:とりあえず決断して新天地で何かつかもうぜ、みたいな。言いだしっぺはくりちゃん(CQのあだ名)だね。22歳のとき。1987年。
CQ:お金貯めて行こうって、俺はしばらく実家の平栗工務店の仕事やって。
Master:俺は美容師。実家も美容院だったから、やがて継ぐのか、どうしよう、何かちがうなって。原宿とかのお店だったんだけど、今にして思うとMr. MAGIC のテープとかかかってて、増々、ニューヨーク行けばなんかあるとおもった。
CQ:プロサーファー目指してカリフォルニアという説もあったけど(笑)。いっときやるんだけど、なんも才能ないな、の繰り返しでさ。
Master:いろんなカルチャーにぶつかっていったよね。六郷でですよ! 渋谷原宿ですら距離があったのにね。
CQ:何かやりたかったんでしょうね。まず日本語つうじる不動産屋いって。クイーンズに住むことになって、バスボーイでもやるかって仕事はじめて。
Master:くりちゃんとは最初からずっとルームシェアね。四回くらい引っ越したよね。でも俺とかわりとすぐホームシックになって、もう日本帰ろうよってなってね。その頃、ロックフェラーセンターで毎週『ズームイン!朝』の中継収録やってたから、そこで写れば日本のみんなに見てもらえるかなって毎週通ってたときにNIPPSがそこの照明をやってたんです。
→ここでMaste Key 中座。この日のイベントのサウンドチェックに向かう←
CQ:それで、俺らのフラットにやーちんがデミを連れてきたんだ。デミにはヒップホップのこととか生活のこととか教えてもらってて。
それで、やーちんは東京ビデオっていう、現地の日本企業とかレストランとかに日本のテレビ番組や映画をデリバリーする会社の配達やってて、デブラージの働いてたレストランに行くんです。最初にやーちんが連れてきたときは年上かと思ったよ。
そのうち、Marsってクラブの掃除の仕事をすることになって、しばらくしたら「DJやってみるか」ってなって、最初は(メインDJの)マーク・カミンズのレコード整理係。でもハウス自体好きじゃなかったから辞めたいってなって、「He Is Not Here!!」しか言わない電話番とか。
MarsはB1、1F、2F、3F、屋上って常時5人DJがいて、俺たちも屋上まかされたりして。デミとやーちんと俺でDJやってね、週末もみんなで集まってね。
==ブッダになってきたのはいつ頃?
CQ:Funky Sliceっていうスタジオのインターンをヒデがはじめてやってみようかって話になって。
日本から日本語ヒップホップの情報も入ってたけどなんかかっこ悪いなぁってリサーチがはじまって。でも、同時に、ニューヨークにいると逆に日本語でラップしたくなる気持ちもあって。向こうにいると妙に自分が日本人であることに気づくっていうか。。日本食も食いたくなるし。そんなに愛してなかったくせに。それで俺らでもできるかって。
とりあえず、やーちんが一番DJうまかったから、1DJ、3MCでやろうと決めてね。そのうちニューヨークに来る日本のB-Boyとも知り合うんだけど、心なしか、負けねえぞみたいな気持ちになってきて。
==日本にいないのに、自然と日本のシーンを意識しはじめてたんだね。ところでブッダは最初のグループ名が❝うわさのチャンネル❞(昔のお色気バラエティ番組)だったり、せんだみつおがリリックに出たり、円広志を引用したり、昭和なキーワードがあるじゃん。そもそも「人間発電所」も昔のアダルトビデオのタイトルだし。
CQ:昭和がテーマなんて考えもしなかったし、今も考えてはいない。昭和の生まれだから自然に出るのだろうか。そもそも俺ら読書家なんていないし、SNSとかもなかったから近くにいる人の言語に影響されあったのかもしれない。相談してこういうのやろうってのは全くなくて。むしろ、日本に戻ってきてCutting Edgeで❝休日モード❞とかサブジェクト決めようとすると、いちいち止まってたじゃん。もともとは三人でバトルやってただけ。客もいなかったし。
●BUDDHA BRAND / 人間発電所
●Mandrill / Just Outside Of Town
デブラージは撮影の日にこのレコード忘れたけど、みんなすぐにわかってポーズしてた
●上の渋谷NHK前と同じ日の撮影。あれこれロケやりすぎて暗くなって、それでもまだフラッシュ一灯で撮ってた
CQ:ヒデは特にデミからの影響が強いね。俺もそうだったけど、俺はおかしな言葉が好きだったから、怒ってる曲でもなんかおかしくなってたり。
日本に帰ってきてからは、ヒデは「カラオケに入るような曲をめざそう」とか、いろんなテーマを持ち込んだけど、うまくいったことないでしょ。そのうちテーマしばりが強くなってきて、スタジオにダメ出しされにいくのかみたいな時期もあったけど。
ヒデもプロデューサー指向なんだったらデミを持ち上げればよかったんだろうけど、みんな鼻っぱしら強かったからね。デミはレコーディングでは最初のテイクが大事なのに何回もやり直しさせらりたりしてたね。
俺らは、自然に結成されたし、誰も四人をまとめられなかったし。気がついたら人におごってもらうのも格好悪い年になってたね(笑)。